このブログでも何度か言及してきましたJohn Ferris教授のBehind the Enigma: The Authorised History of GCHQ をようやくざっと一読しました。本書は英国の秘密情報通信組織であり、ファイブ・アイズの一角を担う、政府通信本部(GCHQ)の初の公式史となります。本書は全部で823頁という枕のような分厚さで、読み続けるのはかなり忍耐を強いられる上、公式史という性質上、事実のみが淡々と記されています。大まかな内容については従来の情報史の研究に寄り添ったもので、本書によって新たな事実は確認できませんでしたが、GCHQの内部事情については部内資料に基づいてかなり詳細に描かれており、本書の役割はこれまでのGC&CSとGCHQに関する情報史研究を、公式史という形で裏書きしたことにあると思います。
本書のスタイルは平易な英語で淡々と事実のみを書き綴るというものです。これは恐らく、1970年代に出版されたF.H.Hinsley教授のBritish Intelligence in the Second World Warがかなり意識されていると思います。Hisnley教授の公式史は5巻本(第3巻は1038頁!)とかなり長く、内容はひたすら事実の羅列なので、これはさらに忍耐を強いられる本です。英国人研究者からも「あれを最初から最後まで読めるのか!」という言葉を耳にするほどです。まぁ「公式史」という位置付け上、とにかく正確な記述が第一で、著者の分析等は二の次、エピソード的な話はいらない、ということなのでしょうが、それに比べるとFerris本の方はかなりコンパクトで読み易いと思います。ただ本書はGCHQの公式史とは謳いつつも、半分近くはその前身である政府暗号学校(GC&CS)の話に割かれており、タイトルに「ENIGMA」とあるように、GC&CSが最も輝いた第二次世界大戦期の話に焦点が合っているような印象です。著者のFerris教授も従来は戦前の歴史研究を得意とされているので、これは致し方無いように思いますが、Hinsley本と比べると、その後の研究蓄積も豊富に盛り込まれていますので、より記述に深みが増したように思います。
そして本書ではフォークランド紛争にも多くの稿が割かれています。これは2005年にLawrence Freedman教授が同紛争の公式史であるThe Official History of the Falklands Campaign を出版された際、当時GCHQは資料を出さなかったようで、後でFreedman教授が「(公式史なのに)GCHQは全く協力してくれなかった」と恨み節をぼやいておられました。そのため、今回はそこもカバーするという意図があったのかもしれません。もう一点気が付いたのは、恐らく大人の事情で、戦後の同盟国、つまり日本や欧州諸国に対する通信傍受の話が割愛されているという事です。本書内では1970年代に英国の開発した暗号機がNATO諸国に採用される話が出てきますが、話は「採用された」で終わっています。想像力を逞しくすれば、「英国の暗号機なのだから、その気になればGCHQは解読できるはず」ということだと思うのですが、そこには触れられていないわけです。もちろん公式史の中で、「GCHQは戦後、日独仏に対する通信傍受をやっていました」と認めるわけにはいかないと思いますが、折角本書内では2013年のスノーデン事件にも触れているのですから、スノーデン氏の言葉を借りてそのような事を仄めかす、といったやり方もあったように思います。
本書を一読すると、色々と制限の多い公式史の執筆を引き受けるのは大変だろうな、と妄想する次第です。もちろんFerris教授はインテリジェンス史を書かせれば右に出る研究者はいない大家で私も個人的にとても尊敬していますが、公式史を書くとなると制約が多いのも事実です。それと対照的なのが2010年のRichard Aldrich教授によるGCHQ: The Uncensored Story of Britain’s Most Secret IntelligenceAgencyでして、これも本ブログで取り上げましたが、こちらはしがらみもなく、教授の関心に基づいて自由に書かれています。特に同盟諸国に対する通信傍受についても遠慮なく書かれており、読んでいて抜群に面白いのはこちらです。ただし本書は部内者のインタビューや公開情報のみから書かれていますので、フォークランド紛争のように部内資料がないと書けない部分はほぼスルーされていますし、他の部分もどこまで資料の裏付けがあるのかは不明です。