本書は2017年に米国で出版されて大きな反響を呼びました。その内容は第二次世界大戦中に米陸海軍の暗号解読組織(SISとOP-20G)に勤務していた1万人を越える女性暗号解読官(コード・ガールズ)に焦点を当てたものです。戦後、彼女たちは秘密保持の規定に従い、誰にも活動内容を話さなかったため、その詳細は良くわかっていなかったのですが、最近になって国家安全保障局(NSA)がコード・ガールズについての秘密規定を緩やかにしたようで、本書が執筆されたようです。私は長らく、米軍の暗号解読も男性が中心でやっていたような印象を勝手に持っていたのですが、本書を読んでそれが思い込みだったということを悟りました。例えば本書によると1940年9月20日に日本の外交暗号「パープル」が初めて解読されることになるのですが、これは米陸軍の伝説的解読官、ウィリアム・フリードマンの手によるものではなく、その弟子の女性解読官、ジュネビーブ・マリー・グローチャンによるものだったようです。さらに日本陸軍の船舶暗号二号(2468コード)を初めて理論的に解読したのも、男女7人からなるチームであり、それは1943年4月6日深夜から7日未明のことだったと記されています。そして1945年8月14日、日本政府はスイスの加瀬俊一公使に対して、連合国からのポツダム宣言を受け入れ、停戦に同意する旨の暗号通信を送っていますが、この暗号通信を解読したのも女性暗号解読官、バージニア・アダーホールドだったそうです。彼女は日本の降伏の意思を確認することになった最初の米国人といって良いでしょう。またNSAの伝説的解読官、アン・カラクリスティも元々、戦争中に陸軍の暗号解読組織で雇われ、才能を開花させたようです。
このように戦争中の米陸海軍の暗号解読組織では多くの女性解読官が活躍していたので、暗号分野で日本軍は、女性の力に屈服させられたといっても良いのかもしれません。本書はこのような事実を丹念に発掘しており、歴史研究としても読み物としても興味深い内容となっています。同時期の英国の暗号解読組織(GC&CS)でも2000名もの女性スタッフを雇っていたことが知られていますが、まだ男尊女卑の強かった時代に女性の能力を活用した米英の柔軟さには驚くばかりです。これに対して日独は女性をこのような部署に配属するという発想は皆無でしたし、ソ連に至っては女性を兵士として最前線に送り込んでいます。まぁ日本も大学出の貴重な頭脳を学徒動員によって最前線に送り込んでいましたのであまり笑えませんが、いずれにしましても使えるものは何でも使おう、というアングロサクソンの現実主義的な発想には頭が下がる思いです。
なお、本書は今年の夏頃にみすず書房さんから翻訳版が出版される予定となっております。
Ron Drabkin氏とカリフォルニア州立大学のBradley Hart教授によるラットランド元英空軍少佐に関する論文、“Agent Shinkawa Revisited: The Japanese Navy’s Establishment of the Rutland Intelligence Network in Southern California”がInternationalJournal of Intelligence and Counterintelligence 誌に掲載されました。ラットランドは英空軍を除隊した後、1920年代から1940年代まで日本海軍のスパイとして活動したことで知られており、これまで日(私)英(Antony Best教授、Max Everest-Philips氏)の研究者によって論文が書かれてきました。これら論文はMI5の資料を基にしたものであり、大筋ではラットランドは長年日本海軍のスパイであったにも関わらず、大した情報を報告できていない、ということで、スパイとしてはあまり役に立ってなかったのではないか、という評価でした。
今回の論文は、2016年にFBI関連の資料が公開されたことによって、米国人研究者の手によってラットランドに別の顔があったことが論じられております。ラットランドは、米国太平洋艦隊が寄港するロスアンジェルスやサンディエゴでの活動での活動を日本海軍から命じられていたのですが、実は、ラットランドは西海岸ではかなりの有名人であり、当時のLAタイムズ紙上で頻繁に実名が挙がっています。当時、ラットランドは英国出身の起業家という肩書で、米国西海岸の社交界に出入りし、名前を売っていたようですが、その派手な活動はスパイとは程遠いものでした。そこで本稿が指摘しているのは、ラットランドの役割は、米国の世論を操るというインフルエンサー(Agent of Influence)ではなかったのか、というものです。これはなかなか面白い指摘でして、確かに彼がMI5に身柄を抑えられた後の尋問では、ラットランドは違法なスパイ活動によって米軍の機密を得たことはなく、むしろ新聞を利用して日米の戦争を回避することにあった、と供述しております。これに対するMI5の評価は、「ほら吹きだ」というものでしたが、ただこれだけ当時の新聞に露出しているということは、何らかのプロパガンダ的な狙いがあったのかもしれません。
私も少しだけ協力させていただいたのですが、Drabkin氏が収集してきた当時の新聞記事を散々見せられ、確かにそのような側面もあるのではないか、と思った次第です。また本論稿では、ラットランドが一時的に居を構えていた横浜でどのような生活を送っていたのかについても調べられており、まだ日本国内にもラットランドの足跡が資料として残っていたことに驚いております。今回の両執筆者によりますと、今後もラットランドのインフルエンサーとしての側面を解明しながら、さらなるラットランド研究の分野を開拓していくつもりのようです。
原著は史上初めて日本のインテリジェンス・コミュニティーの通史を扱っているということで、大変貴重なものです。戦前の日本のインテリジェンス研究は最近になってそれなりの研究蓄積があるのですが、戦後のもの、特に冷戦以降になりますとほとんど研究らしい研究はありません。そこに日本の安全保障研究の第一人者であるSamuels教授が切り込んだということで、今後、本書は学術的なマイルストーンとなっていくでしょう。ただ日本のインテリジェンス史を米国の研究者が先に、それもかなりの内容のものを出してしまったというのは、個人的にはやや残念で、やはり日本人の手によるものが待たれます。実は私も書き進めてはいるのですが、日暮れて道遠し、といった状況ではあります。さらに今年の3月には豪州の研究者であります、Brad Williams博士がJapanese Foreign Intelligence and Grand Strategy という研究書を出版予定です。私も同書に推薦文(blurb)を寄稿するため、既に一読しましたが、こちらもかなりの内容で、日本人にはなかなか書きにくいこともきちんと書いてくれています。
興味深いのは何故、最近になって戦後の日本のインテリジェンス・コミュニティーの歴史が注目を集めているのかということですが、これは恐らく2012年の第二次安倍政権以降、日本の安全保障やインテリジェンスの体制が大きく改革され、それが注目を集めたことが大きいと思います。戦後日本のインテリジェンスの歴史を通観していて思うのは、1960年ぐらいまでは吉田総理・緒方官房長官のタッグで戦後インテリジェンス機構の構築が進むのですが、その後90年代ぐらいまでは完全に停滞の時期に入ります。私自身、調べてはいるものの、この時期、日本のインテリジェンス・コミュニティーに何があったのかいまいち良くわかりません。資料もなければ当時を知っている方ももういらっしゃらないので、調査を進めていくことが難しいのです。
日本のインテリジェンス体制に変化が生じるのは90年代後半からになります。この時期、防衛庁情報本部、さらには内閣衛星情報センターが設置され、21世紀に入ると数々のインテリジェンス改革の提言書が発表され、政府はそれを淡々と実行していきます。そして第二次安倍政権になりますと、日本版NSCの創設や秘密保護法の導入などで、一気に改革が進むことになります。またこの時代は政府関連資料や新聞、国会議事録、関係者の証言等、多くの情報がありますので、90年代以降についてはそれなりに研究を進めやすい、ということになり、Samuels教授やWilliams博士のような海外の研究者が書かれているわけです。ただ両者とも日本の政治や安全保障政策には詳しいものの、日本人の我々とはやや異なった観点も持っておられます。一般論ですが、欧米における日本のインテリジェンスのイメージというのは、「日本人は忍者の末裔だから隠密活動が得意だ」とか「日本の戦後復興は日本政府の経済インテリジェンスが功を奏したからだ」というもので、これは普通の日本人の感覚からすれば「?」という話になります。また省庁間や省庁内の微妙な組織力学や相場観というのは、そこにいたからこそわかる、という話もありますので、やはり日本人の手による戦後日本のインテリジェンス史、というのも必要なのでしょう。