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「魔法は探し求めている時が一番楽しい」


by chatnoir009
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Master Spy on a Mission

 
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 スウェーデンの安全保障開発研究所(ISDP)のバート・エドストローム教授が、スウェーデン時代の小野寺信元陸軍少将のインテリジェンス活動を総括された研究書を出版されました。小野寺少将といえば、太平洋戦争中に在スウェーデン公使館付武官として、ストックホルムで活躍し、ドイツやポーランド、エストニア国の情報機関と協力しながら、連合軍に関する貴重な情報を東京に送り続けていたことで知られています。特に1945年2月には、ソ連がドイツ降伏後数か月を目途に対日参戦を行うという、所謂「ヤルタの密約」に関する情報を入手し、それを参謀本部に送信したものの、参謀本部の作戦参謀たちがそれを握りつぶしてしまった、との逸話が良く知られおり、1985年にはNHKでもドキュメンタリーが放映されていますので、小野寺少将といえば、決定的な情報を送っていたにも関わらず、東京では無視され続けた悲劇のインテリジェンス・オフィサーであった、との見方が定着しているかと思います。そのようないきさつについては、妻百合子氏による『バルト海のほとりにて』で詳しく書かれています。

 ただ問題は、小野寺少将が本国に送ったとされる「ヤルタ電報」の実物が見つからないことにあります。参謀本部で握りつぶされたのであれば、日本側に残っている可能性は低そうなのですが、戦争中の英国政府暗号学校(GC&CS)は小野寺が東京に送る武官電報のほとんどを解読しており、解読できなかったものも戦後に改めて解読し直すということで、ほぼすべての電報が解読されて保管されているような状況なのですが、肝心のヤルタ電はその中に含まれておりませんでした。もちろんGC&CSが傍受できなかった可能性もあるのですが、ずばりの電報が残っていなくとも、その前後に必ずヤルタやソ連参戦に関する話が出てきても良さそうに思います。しかし1945年前半の小野寺少将の電報を血眼になってすべて目を通したのですが、そのような話が一切出てこないので、どうしたものかと考えておりました。少し話が逸れますが、1942年6月のミッドウェイ海戦の時に、日本海軍の作戦暗号が解読されて待ち伏せされていたことは良く知られているのですが、米海軍は日本海軍の地点符号「AF」がどうしてもわからず、ミッドウェイ島の守備隊にわざと暗号化されていない平文(「ミッドウェイは水不足」)を打たせ、それを傍受した日本海軍が「AFは水不足の模様」と司令部に送った電報をさらに傍受・解読し、米海軍が「AF=ミッドウェイ島」と判断したことは良く知られています。ところが肝心の「AF電」の現物が見当たらなかったことから証拠がなく、出来過ぎた作り話、米海軍が真実を隠蔽するためのフィクション、などともいわれたことがあるのですが、ある所に「AF電」が保管されていることがわかり、ようやく史実として確定したと言われております。ですので小野寺情報についても、肝心の「ヤルタ電報」が見つからない事には、どう判断して良いか迷う所でありました。

 これに対してエドストローム教授は、当時小野寺少将と情報交換を行い、かつ小野寺を監視下においていたスウェーデン軍や当局の資料から、実は小野寺少将自身が一貫してソ連参戦を信じていなかったと論じています。ソ連参戦を信じていないのであれば、上記のようなヤルタ電報を日本に送るというのも考えにくいので、最初からそのようなものはなかったのかもしれません。また『バルト海のほとりにて』では小野寺少将とスウェーデン軍幹部との関係が良好に描かれていますが、エドストローム教授によりますとスウェーデン軍は小野寺少将を監視し、偽情報工作のために利用していたようですので(ポーランド情報機関の公式史にもそのような記述が散見されます)、そのような視点に立脚すれば連合国の偽情報工作に利用されていた小野寺像というものが浮かび上がってきます。最近では日露戦争における明石元二郎元陸軍大将のロシア工作も否定される傾向にありますので、我々が学んできた明石像や小野寺像は、情報史研究の進展によって見直しが必要になってきているのかもしれません。

by chatnoir009 | 2021-10-18 17:38 | 書評