学者の本分
2012年 01月 19日
しばらく橋下徹大阪市長と山口二郎北大教授のテレビ討論が話題になっておりましたが、その中で橋下市長が何度も学者は現場を知らないと指摘されていたように、一般論としてやはり政治学者は現場に対してあまり関心を示さない傾向があると思います。例えば実際の政治家に関心を持たない政治学者(評論家ではない)も珍しくありませんし、国際政治学の分野でも現実にそぐわなさそうな理論や未だにイデオロギーに縛られたような研究に出くわすことがあります。
まぁこんなことは昔から言われてきたことですので今更感がありますが、これは私自身にも思い当ります。以前のエントリーで書きましたように、私は読書のみで「国際政治における米英の特別な関係」を無邪気に信じていたクチですが、あるイギリスの外交官からそんなものは幻想だと言われてしまったことがありますので、私も現場を知ろうとせず、本の知識を信用してしまっていたようです(ある一定の時期であれば特別の関係は成り立っていたとは思いますが)。
では学者が現場に精通していれば良いのかというと、現場の人間、例えば社会科学分野であれば霞が関の官僚の方が圧倒的に詳しいに決まっていますし、官僚の方も実際そう思っています。たまに学者が無知を晒してしまうと、官僚ならば「さすが○○先生!しかしそこはこうでは」と上手くフォローしてくれることが多いので学者の方は勘違いしてしまいますが、橋下市長は全く容赦しなかっただけのことです。
そうなると社会科学系の学者はその存在意義を問われることになってしまいますが、やはり学者は学者らしく特定の専門分野を極めることに精進すれば良いのです。政治学でも歴史学でも一流の研究には人を唸らせるものがあります。ただ象牙の塔にこもるのではなく、研究を進めていく過程で現場や現実を知っておかなくてはなりませんが、意外とここが軽視されがちなのが問題なのだと思います。それは私のやっているインテリジェンス研究においても例外ではなく、いつもここでも書いていますようになるべく現場の人々から話を聞いたり、実務についての知識を蓄えておくことが資料や書籍を読む際に活きてくるわけです。
そもそもごく狭い分野にしか精通していない学者が、軽々しく専門外のことでテレビのコメンテーターを務めるような風潮の方がより問題だと思います。もちろん学者のやるべきことは研究の他にも教育や社会の啓蒙といったことも挙げられますが、啓蒙活動は自分の専門を極め、その上で広い見識を持った大家の方にお任せしておけば良いのではと思います。かのマックス・ウェーバーも学者は自己抑制によって真理の追究に邁進し、政治に関わるべきではないと書いております。「おいおい、21世紀にもなってウェーバーかよ」と突っ込みを入れたくなる気持ちもわからないではありませんが、ウェーバーが言わんとしていうのは、学者が現実に踏み込みすぎることで特定の思想やイデオロギーに染まってしまい、まともな研究ができなくなってしまうというごく当たり前の事だと理解すれば、それは今の日本の学界にも思い当たる節があるのではないでしょうか。
ここまで書いている内に先月の中央公論に掲載されていた井上章一氏の寄稿を思い出しましたが、日本では客観的なはずの学説が、学閥などの政治力学によって歪められてきのだと。やはり学者はいつも初心を忘れず学問に邁進するのが理想ではあるのですが、意外とそれは難しいようです。しかしそれを乗り越えた学者の発言こそが社会を啓蒙し、重みをもって受け止められることになるのです。
まぁこんなことは昔から言われてきたことですので今更感がありますが、これは私自身にも思い当ります。以前のエントリーで書きましたように、私は読書のみで「国際政治における米英の特別な関係」を無邪気に信じていたクチですが、あるイギリスの外交官からそんなものは幻想だと言われてしまったことがありますので、私も現場を知ろうとせず、本の知識を信用してしまっていたようです(ある一定の時期であれば特別の関係は成り立っていたとは思いますが)。
では学者が現場に精通していれば良いのかというと、現場の人間、例えば社会科学分野であれば霞が関の官僚の方が圧倒的に詳しいに決まっていますし、官僚の方も実際そう思っています。たまに学者が無知を晒してしまうと、官僚ならば「さすが○○先生!しかしそこはこうでは」と上手くフォローしてくれることが多いので学者の方は勘違いしてしまいますが、橋下市長は全く容赦しなかっただけのことです。
そうなると社会科学系の学者はその存在意義を問われることになってしまいますが、やはり学者は学者らしく特定の専門分野を極めることに精進すれば良いのです。政治学でも歴史学でも一流の研究には人を唸らせるものがあります。ただ象牙の塔にこもるのではなく、研究を進めていく過程で現場や現実を知っておかなくてはなりませんが、意外とここが軽視されがちなのが問題なのだと思います。それは私のやっているインテリジェンス研究においても例外ではなく、いつもここでも書いていますようになるべく現場の人々から話を聞いたり、実務についての知識を蓄えておくことが資料や書籍を読む際に活きてくるわけです。
そもそもごく狭い分野にしか精通していない学者が、軽々しく専門外のことでテレビのコメンテーターを務めるような風潮の方がより問題だと思います。もちろん学者のやるべきことは研究の他にも教育や社会の啓蒙といったことも挙げられますが、啓蒙活動は自分の専門を極め、その上で広い見識を持った大家の方にお任せしておけば良いのではと思います。かのマックス・ウェーバーも学者は自己抑制によって真理の追究に邁進し、政治に関わるべきではないと書いております。「おいおい、21世紀にもなってウェーバーかよ」と突っ込みを入れたくなる気持ちもわからないではありませんが、ウェーバーが言わんとしていうのは、学者が現実に踏み込みすぎることで特定の思想やイデオロギーに染まってしまい、まともな研究ができなくなってしまうというごく当たり前の事だと理解すれば、それは今の日本の学界にも思い当たる節があるのではないでしょうか。
ここまで書いている内に先月の中央公論に掲載されていた井上章一氏の寄稿を思い出しましたが、日本では客観的なはずの学説が、学閥などの政治力学によって歪められてきのだと。やはり学者はいつも初心を忘れず学問に邁進するのが理想ではあるのですが、意外とそれは難しいようです。しかしそれを乗り越えた学者の発言こそが社会を啓蒙し、重みをもって受け止められることになるのです。
by chatnoir009
| 2012-01-19 22:19
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