Blunt papers
2009年 08月 08日
つい最近、大英図書館で最後のケンブリッジ・スパイであるアンソニー・ブラントのプライベート・ペーパーが公開されたそうです。今年はブラントの没後26年にあたるのですが、この時期の公開はブラントの親類や友人がブラントの死後25年は機密を解除しないようにと訴えたからだと言われています。このペーパーはブラントの晩年の1979年から亡くなる83年までブラントが自らの心情などを吐露したものだそうです。
ブラントは他のキム・フィルビーを始めとする他のケンブリッジ・スパイと同じく、1930年代にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学び、そこでソ連側のエージェントとして雇われることになります。その後、英陸軍を経てMI5に勤務し、西側の機密情報をソ連に流していたと言われています。戦後、ブラントは西洋美術史家として多くの著作を記します。私には彼の美術史家としての業績は評価しかねますが、彼はトリニティーの名誉研究員、コートールド・ギャラリーの館長、そして王室の美術鑑定人としてエリザベス女王に御進講する立場にも上り詰めます。
ところがキム・フィルビーがソ連のスパイであることが発覚すると、芋蔓式に他のスパイの素性も割れ、ブラント自身も1979年に自らがスパイであったことを認めざるを得なくなります。これに激怒したとされる女王はブラントの爵位を剥奪し、ブラントは社会的制裁を受けることになります。しかし他のケンブリッジ・スパイが最後はソ連への亡命を余儀なくされ、そこで客死したのに比べると、最後までイギリスに残ることができたブラントは幸運な方かもしれません(バージェスやマクリーンの最後は悲惨だったようです)。そしてブラントは死ぬまで自分の過ちを公には認めようとはしませんでした。ところがメディアによりますと、公開されたペーパーにはブラントが「共産ロシアに加担したのは人生最大の失敗であった」と悔やむ一節なとがあり、大変興味深い内容のようです。ケンブリッジのアンドリュー教授もBBCのインタビューに答え、「彼が過ちを認めた」とコメントされています。
ブラントに関しては、Conspiracy of Silenceや Anthony Blunt: His Lives 等の著作がありますが、どれも二次文献や報道ソースに頼ったもののようです。今回の資料公開によって、一次資料に基づくブラント研究が出てくるのもそう遠いことではないでしょう。
コートールド・ギャラリーにて女王と語るブラント

ブラントは他のキム・フィルビーを始めとする他のケンブリッジ・スパイと同じく、1930年代にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学び、そこでソ連側のエージェントとして雇われることになります。その後、英陸軍を経てMI5に勤務し、西側の機密情報をソ連に流していたと言われています。戦後、ブラントは西洋美術史家として多くの著作を記します。私には彼の美術史家としての業績は評価しかねますが、彼はトリニティーの名誉研究員、コートールド・ギャラリーの館長、そして王室の美術鑑定人としてエリザベス女王に御進講する立場にも上り詰めます。
ところがキム・フィルビーがソ連のスパイであることが発覚すると、芋蔓式に他のスパイの素性も割れ、ブラント自身も1979年に自らがスパイであったことを認めざるを得なくなります。これに激怒したとされる女王はブラントの爵位を剥奪し、ブラントは社会的制裁を受けることになります。しかし他のケンブリッジ・スパイが最後はソ連への亡命を余儀なくされ、そこで客死したのに比べると、最後までイギリスに残ることができたブラントは幸運な方かもしれません(バージェスやマクリーンの最後は悲惨だったようです)。そしてブラントは死ぬまで自分の過ちを公には認めようとはしませんでした。ところがメディアによりますと、公開されたペーパーにはブラントが「共産ロシアに加担したのは人生最大の失敗であった」と悔やむ一節なとがあり、大変興味深い内容のようです。ケンブリッジのアンドリュー教授もBBCのインタビューに答え、「彼が過ちを認めた」とコメントされています。
ブラントに関しては、Conspiracy of Silenceや Anthony Blunt: His Lives 等の著作がありますが、どれも二次文献や報道ソースに頼ったもののようです。今回の資料公開によって、一次資料に基づくブラント研究が出てくるのもそう遠いことではないでしょう。
コートールド・ギャラリーにて女王と語るブラント

by chatnoir009
| 2009-08-08 00:35
| インテリジェンス

