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小野寺情報

 昨日の産経新聞に、陸軍参謀本部が終戦時に重要情報を意図的に握りつぶしていたという記事が掲載されていました。
 黙殺された情報は、参謀本部情報部の堀栄三中佐が分析した台湾沖航空戦に関する情報と、在ストックホルム武官小野寺信少将から参謀本部に届いたとされるヤルタ会談の情報になります。前者は古くから保坂正康氏らによって、参謀本部作戦部の瀬島龍三中佐が握りつぶしたとの指摘があり、恐らくその可能性は高いと思いますが、後者の小野寺情報に関しては未だによく分からないところがあります。
 通説としては、1945年2月、小野寺がヤルタ会談におけるソ連の対日参戦に関する密約の情報を得て、それを参謀本部に知らせたものの、当時ソ連との和平工作に傾いていた軍部からは無視されたというものでした。その結果、日本政府はソ連の参戦を知らないまま、対ソ和平工作を進めるという行動を取り、無駄な時間を浪費したというものであります。この話は小野寺氏の妻、百合子氏が書かれた『バルト海のほとりにて』で紹介されている有名なエピソードですが、日本側に小野寺の情報が残されておらず、また小野寺の話を肯定する陸軍のOBもいなかったので、事実を確認することが困難でした。
 しかし参謀本部ロシア課長を務めた林三郎元大佐は、ヤルタの情報が届いていたことを戦後回想していますし、また海軍の高木惣吉少将も戦争中の記録としてヤルタの情報について書き記していますので、何らかの形で情報が東京に届いていたことは確実なようです。高木の場合は情報源を「在スイス武官」と記していますので、小野寺からのものではなかったようです。この件に関しては来週15日に放映予定のNHKスペシャル『終戦決断』でも触れる予定ですが、戦争中、米英が解読していた日本の武官電の記録から、高木が読んだ電報らしきものが見つかりましたので、ベルンから東京にヤルタ情報が伝えられていたことはほぼ確実なようです。
 小野寺の電報については、米英の通信傍受記録に小野寺が発電した電報が数多く残されているのですが、どれだけ調べてもヤルタに関わるものは結局見つけることができませんでした。記録が見つからなかった理由としては、①米英政府が1945年2月の小野寺の電報だけを公開していない、②1945年2月に小野寺の電報が「たまたま」傍受されていなかった、③暗号の強度が高くて解けなかった、④そもそも小野寺情報など最初からなかった、といった可能性が考えられますが、未だに米英が1945年2月の小野寺情報のみを秘匿する理由はないと思います。また③の暗号の問題も、米英は戦争が終わってから傍受はできたが解けなかった暗号を解き直していますので、傍受できたものはすべて解かれているはずです。とすれば傍受されていなかったか、小野寺情報などなかったか、ということになりますが、ここは何とも言えないところです。個人的には小野寺情報はあったんだろうと思うのですが。
 今回の産経の記事は通説通り、小野寺の情報は東京に届いており、それを参謀本部の「奥の院」(作戦部)が黙殺したとの解釈のようですが、瀬島が台湾沖航空戦の情報を握りつぶしたように、小野寺の情報も握りつぶしたのではないか、というのはやや牽強付会なところがあります。当時、陸海軍ではソ連の対日参戦は必至と考えられていましたので、わざわざ参謀本部作戦部が小野寺情報のみを消去する必要性はなかったように思います。
 それでは小野寺の情報は一体どうなったのでしょうか。恐らく当時は小野寺だけではなく、既述したベルンからの情報や陸軍が行っていた通信傍受情報など、世界中から山のような「ソ連参戦」or「不参戦」の情報が東京に届いていました。ちょうどこの時期、海軍が作成していた「情勢判断資料」を読むと、ソ連に関する情報がかなりの頻度で届いていたことが判ります。ここから推測するに、もし小野寺情報が東京に届いていたとしても、このような情報の山に埋もれてしまっていたのではないかと思います。ですから問題は、握りつぶした云々という謀略論的なものではなく、重要情報が届いていてもそれを組織としてきちんと処理できなかったという構造的な点にあったと考えています。
by chatnoir009 | 2012-08-09 08:01 | インテリジェンス